私が思ったこと

とても長いです。

でも、私が思ったこと、今更になって気づいたこと。自分が何をしてしまったのかを書き出しました。

文章力はありません。ただ思ったことを書いただけです。

 

 

 

 

 

ふと、お盆の話になり、

その会話の中で「その人を思うだけで、見えなくてもその人は側に帰ってくることが出来るんだよ」

その一言でお父さんを思い出しました。

 

 

 

私は思春期真っ盛りの時期、お父さんが苦手でした。

なに話していいか分からない上に、とても甘やかせてくれる。欲しいもの、やりたいことは全て与えてくれた。

チャレンジがやりたい→飽きてやらなくなった→月謝だけ払い続けさせてしまった

こんなことばかり。

その甘えさせてくれることに、甘えるだけ甘えていて、お父さんはお母さんに怒られてばかりな感じを覚えています。今思えば甘やかせてばかりなのはいけないのだと今更分かりました。

 

そうして私はわがままの自分が1番のアホになりました。自分が他のことを一切吸収せず、自分の世界しか見てなかったからです。

自分のせいで中、高とたくさんいじめられてきました。

自分で自分の首をたくさんしめていました。死にたいとはこの時は思いませんでした。

こんな私でも側にいてくれる友達がいたからです。

 

そんな中でお父さんが仕事から帰ってきたときに背中が痛いと言っていたのを覚えています。

お母さんが心配する中、私は関わりたくないと、知らないふりをしていました。

アレがお父さんの病気の始まりだったのかなあと思います。

 

お父さんが病気になってから、少しずつ関わるように、話すようになりました。

学校の帰り道、病院に1人で寄って、少し話して帰るだけ。それも数回程度でした。

私の中でお父さんは何でも作れて、何でも出来て、事故しても元気に帰ってきて、お母さんのこと1番大好きで、家族思いの「スーパーマン」になっていました。

そんなお父さんが死ぬはずないじゃん?と、いつかケロッと元気になるはずだ、お父さん笑ってるじゃん、元気じゃんとずっと思っていました。

 

 

大教会の部屋を1室お借りしてその部屋がお父さんの部屋になった。

それから私は余計に関わらなくなった。

お母さんがずっとつきっきりでいて、私は子供ながらに邪魔してはと何故かその思考になり入らなかった。

それと、お父さんの痩せていく顔が見るのが嫌だった。モサモサだった髪がなくなっていくのが見たくなかった。

 

私がその部屋でよく覚えてるのが、大教会で行われる節分の日。お相撲さんがきて、みかんやら豆やら餅やら投げてくれるのでそれを拾うという、子供たち大喜びな行事。

お父さんは直接見には行けなかったので部屋にいた。

だから、うちの子供たちを携帯のビデオ機能で楽しんでる姿を撮った。

それを真っ先にお父さんに見せに行ったとき、喜んでいたのが、お父さんとの思い出の中で1番強く覚えていることです。

 

 

後悔していることがあります。

お父さんの死に目に、兄弟全員でたちあえなかったこと。

深夜だったので私と3番目の弟の勇馬以外みんな寝ていて、起こしてあげれなかったこと。

龍馬がたくさん悔やんでいること。

 

亡くなった瞬間は実感がなく、大泣きはしたものの、なんだかすぐに起きてきそうだと思った。

傍らでお母さんが放心状態で動かなかった。

 

亡くなったと実感したのは火葬される瞬間。焼くところに入れられるホールで、私は叫びながら泣いてしまった。

入れないで欲しかった。

スーパーマンはスーパーマンじゃなかった。

17年間しか一緒にいれなかった。

でももっと悲しいのが、私より下の弟と妹が私より短い時間でしかお父さんといれなかったこと。

 

 

 

 

 

 

今私は愛媛で好きな人と一緒にいます。

でも、大教会を出る時、お母さんとたくさん喧嘩しました。

言い合いも何度もしました。

言う事も聞かずに無理矢理東京を飛び出してきました。

 

お母さんのあの状況は、好きな人がいなくなって、動けるのは私いおりだけ。その私が出ていくとなると、それは止めるよね。

大教会での暮らしがしんどいのも凄い分かってる。

弟や妹がいるから面倒見るのが大変なのも分かってる。

 

でも私はまた私を優先しました。

大教会にいること自体が嫌になり、夜遊びばかり。奥の部屋に住んでいた時に、男嫌い真っ盛りだった私の隣の部屋のお姉さんが上の階のお兄さんを部屋にいれてその声が聞こえたことにより、気持ち悪くなり、余計に夜は外で遊び、朝方帰るのは当たり前だった。

その部屋に帰ること自体が嫌で家族がいるとこに戻ることに。

 

いじめられても平気だった私が初めてここに住んでることにより、宗教が元々嫌であったことにより、死にたいと毎日思うようになり、精神科にも行き、大教会のお勤めにより友達とも遊べなくなり離れてしまったりで更に疎遠。

精神的に死んでいました。何度も水場に行ったり、高いところへ行ったり、危ない夜の街へでかけていたりしていました。

生きてることのがつらいんだと。

お母さんには言えるはずもありませんでした。

ちっぽけなことで悩み死にたいとか馬鹿なことを言ってると、怒られると思ったからです。

 

唯一の救いが、全部話して事情を知り毎日のように連絡してくれる友達や、慕道会に関わるのこと。アプリで子供たちと楽しむこと。無理くり遊びに行くこと。だけでした。

 

私が嫌だったのは、大教会にいること。部屋で変なことしていたお姉さんお兄さんが同じ空間にいること、土日関係なく毎日家のことをして自由に出来る時間が大幅にとれなかったこと。

 

家族のことはなによりも大好きです。

でも当時は宗教のことを押し付けてこられるのも嫌で、家族とも話さないことばかり。

そこに今の彼氏が1番の支えとなり、死ぬより彼と一緒にいるという選択をし、家を出るということになりました。

 

いま愛媛にいることにより、死にたいとは思っていません。

ニキビだらけだった顔も今じゃひとつふたつできただけで悩むぐらい前より綺麗になり、仕事先でいい仲間に出会え、仕事しつつも空いた時間で友達と飲みに行ったり遊びに行ったり。

弱かった体も(今もそんなに変わらないが)少しは強くなり、バリバリ生活費を稼ぐ日々。

なにより、自由に出来ることが幸せです。

 

 

1番申し訳なく思っているのは、お母さん、兄弟、迷惑かけたまさのおばちゃん達。

お父さんがいなく、私も出ていき、お母さんだけになった今、私のことをどう思っているのか。ごめんねと言っても、私が大教会に戻る事は絶対に無いので言ったところで許してはもらえないだろう。

甘やかせてくれたお父さんも流石に怒っているだろうと。

ふと思います。

 

離れてみて思ったのは、あれだけウザイと思ってた家族なのにとても今は大切にしなきゃと思うようになりました。

かと言って連絡をしないのは私の昔からの癖であります…(笑)

 

たまに電話できるのが嬉しいのです。

たまに親や兄弟からLINEがくるのが嬉しいのです。

SNSで兄弟達が笑顔でいる写真を見るととても嬉しいのです。

 

ダメなお姉ちゃんだけれど、たくさん仕事して稼げるようになったら、なにかあげたいといつも思っています。

 

また、近いうちに連絡しよ。

次に会えるのはお正月に、本栄の元旦祭に帰るときだなあ。

 

 

まとまり感ゼロだった( ・_______・ )

何が言いたいか分からない( ・_______・ )

でも今は心がすっきりしています。

おやすみなさい。